「わだつみ」ぜひ読んで

2014.5.5東京新聞投稿欄【ミラー】より
「わだつみ」ぜひ読んで
   
無職 菊池 竹史(87)(茨城県日立市)

 4月29日付「『わだつみ』に別の遺書」の記事、身が震えるような感動で読みました。
 
 1945年、私は学業途中で軍隊に招集され、戦車に体当たりしろなどと、狂気としかいえない厳しい訓練の毎日。死ぬことを義務付けられ、抗議はもちろん、疑問を持つことも許されず、「大君(天皇)のために死ぬ」というひと言で片付けられた時代でした。

 敗戦で復学し、焼け跡を眺めながらぼうぜんとしていたとき、偶然目にしたのが「きけわだつみのこえ」の前身「はるかなる山河に」でした。戦争という不条理の中で戦死した学生たちの「呻き(うめき)」のような手記。その後、出版された「わだつみ」は私の座右の書として、今でも大事にそばに置き、折に触れて読んでおります。その中で木村久夫さんの手記はいつ読んでも胸が痛くなります。

 その手記の他に別の手記が発見されたというニュース。何度も読み返しました。B級戦犯として処刑された 木村さんたちと、A級戦犯として処刑された東城英樹たちとは、同じ戦犯であっても雲泥の差がある。 一概に「戦犯」と決め付けることは許されないーということをこの手記は教えてくれた貴重なものであります。

 今そのA級戦犯が何であるかも知らず、いや、知ろうともせずに、A級戦犯が祀られている靖国神社を参拝する首相や閣僚たち。彼らは解釈改憲論、秘密保護法など、国民を泥沼に追い込んだ「いつかきた道」を歩いております。だからこそ、木村さんたちの手記を若い人、特に現代の学生たちに読んでもらいたいと思います。戦争の愚劣さを知るために。


わだつみ記事 尊い平和思う

2014.5.8東京新聞投稿欄「発言」より
わだつみ記事 尊い平和思う
    
無職 岩田進介(75)(埼玉県越谷市)

 昭和の日の4月29日、東京新聞は「学徒兵・木村久夫、『わだつみ』に別の遺書」を計6面にわたって取り上げた。
 「遺書」を読むのは苦しい。辞世の短歌に胸がつぶれそうになった。「降伏後の日本は随分変ったことだろう・・その中に私の時間と場所との見出されないのは誠に残念の至りである」は彼の無念さが伝わってきて読むのがつらい。心を静め、思いの丈を必死で書こうとする姿が見える。
 この遺書は、紛れもない反戦の叫びである。彼らの尊い犠牲の上に築かれた戦後の平和日本。だが、安部晋三首相率いる現政権は積極的平和主義、解釈改憲、秘密保護法、防衛装備移転ーなど欺瞞に満ちた表現で日本を変えようとしている。 平和の柱である憲法九条は絶対に守り抜かねばならぬ。そう思った。
【2014.4.29東京新聞より】「わだつみ」に別の遺書
T小東京新聞2011114.4.29「わだつみ」にべつの遺書.jpeg東京新聞2011114.4.29より
感情共有し次世代へ
ノンフィクション作家保阪正康さん

 木村久夫の遺書は「きけわだつみのこえ」の中でもほかの人と全く違う。まず挙げられるのは、彼が戦犯として刑死していることだ。他の人は特攻などで戦死するという前提で書かれている。宿命を呪いながら国のために命懸けで戦って死んでいくという使命感と、個人として死にたくないという思いが多い。しかし木村は通訳だったこともあり、日本軍の責任回避の体質や残酷さを身をもって知っていた。遺書には日本軍の体質への内省があり、戦犯裁判の矛盾や陸軍への怒りが描かれている。軍の不条理や薄汚さを最も的確に表している遺書は、社会性や歴史性を持っている。

 軍は彼を守るべきだったのに守らなかった。(「哲学通論」の余白のほか)11枚にわたって遺書を書いた木村は、「思うことを書き残さずに死ねるか」という思いだっただろう。 その遺書を改変することは、本人の遺志に沿うのか疑問がある。辞世の歌の入れ替えが典型的だ。政治的なプロパガンダに使うのと違い、善意だと思うが、故人の実像をゆがめる。直すのではなく、注をつけてくれれば良かったと思う。 
 一方で、私たちに突きつけられた問題もある。どう読むかということだ。平時に生きる私たちに、今の基準で審判するのではなく、読む時は彼らの感情を共有すべきだ。僕らが彼らだったかもしれないのだから。
戦争の資料は、戦犯の追及を逃れるため閣議で焼却することが決まり、多くが燃やされた。これまでアカデミズムやジャーナリズムが資料を発掘してしたが、こうして資料が見つかることで論争が可能になる。 私は「記憶を父として、記録を母として教訓や知恵という子供を産みなさい」と言っている。歴史の教訓を理解することなしに「聖戦」などと言うのは、私たちの百年、二百年年先の世代に対して恥ずかしいことだ。 
木村の思いは、「哲学通論」の余白と、今回見つかった遺書の二つに凝縮している。子供のころの思い出から死刑に至るまでを語っており、二つの遺書を全部読んでもらう方がいい。 木村の思いは国民的遺産だ。もとのまま紹介することは、彼の霊に報いるだけでなく、次の世代に応えることにもなる。

戦争体験者の焦燥感

2014.5.3東京新聞投稿欄ミラーより
戦争体験者の焦燥感
  
僧職 中山 道(84)(広島県庄原市)

 安部晋三首相が設置した有識者による私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)」が、憲法解釈を変更して集団的自衛権行使を容認する報告書を連休明けにも提出するという。最初から結論ありきの会議の在り方もナンセンスだが、これを受けて首相が今国会中に閣議決定する方針と聞けば笑ってはすまされない。
 
 安部政権の目指す戦争ができる国への道筋が決定的に明らかになってきたからだ。  そればかりではない。公共放送であるNHKの会長や経営委員らから戦後の歴史認識を否定するような発言が続出している。  このような首相周辺の”お友達”や首相自身による戦前回帰を思わせる言動に対して、あまりに寛容な世論やマスコミの動向に失望とともに戦争体験者としてのやりきれない焦燥感を覚える。
 先の戦争末期、15歳で旧海軍の「予科練」に志願した私は、入隊のため故郷を出発する駅頭で、見送りの人たちを前に「生きては帰りません」と高らかに決意を述べたものだ。15歳の少年をそこまで駆り立てた背景とは一体何だったのだろう。
 今思うと、政治はもとより、メディアも、教育も世間の話題も、世の中の全てが戦争賛美一色に染められた中では、少年の身でそれ以外のことを考える余地など無かったに違いない。
 そして今、戦争を肌で体験した世代が年々減少していく中で、首相をはじめ戦争を知らない上に、戦争になっても決して戦場に立つことのない世代の人たちによって戦争への道が築かれつつあることに強い危惧を 感じている。

あの日から70年、運命を変えた学童疎開 40万人超戦争が招いた影

2014.4.15東京新聞より
あの日から70年、運命を変えた学童疎開終戦まで1年4ヶ月
40万人超戦争が招いた影
待っていたのは飢えいじめ
今からちょうど70年前の1944年(昭和19)年春、政府は都市の子どもたちの運命を大きく変える一つの決定をした。地方に一時的に移住させる学童疎開。太平洋戦争の戦況は悪化の一途をたどり、本土空襲の恐れが迫っていた。
T小東京新聞2011114.4.15 学童疎開.jpeg
 「元気で行ってまいります。帝都の守りをお願いいたします」
1944年8月25日夜、東京都荒川区の第一日暮里国民学校校庭に一人の児童の声が響いた。号令台の上であいさつに立ったのは当時6年生、12歳の小林けいすけさん(82)(さいたま市)。
T小東京新聞2011114.4.15 学童疎開.№2.jpeg
待っていたのは飢えいじめ
鬱憤は「よそ者」に向けられた

〔秘密保護法成立〕【「違う」声結集を! 駄目だと思ったら負け】脚本家小山内美江子さん

2013.12.7東京新聞より
〔秘密保護法成立〕
【「違う」声結集を! 駄目だと思ったら負け】脚本家小山内美江子さん
 あの時代に戻してはいけない。脚本家の小山内美江子さん(83)は、特定秘密保護法の成立に深い危機感を抱く。思春期を戦時下で過ごした経験から、自由にものが言えず、若者が戦争に駆り出されるような世の中の再来を恐れている。そのために「みんなで声を上げ続けよう」と呼び掛ける。

 昨年12月2日、国会近くで開かれた反対集会に参加した小山内さんは、「私は何も言えない時代を経験してきた。ものを思うこと、ものを話すことを止められたら人間は人間でなくなってしまう」と訴えた。

 法律は成立した。だが、小山内さんは力を込める。「全てが決まったから駄目だと思ったら私たちの負け。これからも戦争に向かう流れに抗して、声を上げていくしかない。『それは違う』と言い続けなければ」
H小 秘密保護法成立「違う」声結集を 2013.12.7東京新聞より.jpeg

【初心をあしたに】火の海の記憶 伝える 早乙女勝元さん

2011.9.16 讀賣新聞より
【初心をあしたに】火の海の記憶 伝える 
早乙女勝元さん作家、東京大空襲・戦災資料センター館長
T小 火の海の記憶を伝える(早乙女勝元さん).jpg

東京大空襲と戦争孤児【その3】

東京大空襲と戦争孤児
烏山区民センター第16回文化祭(2013年10月)「憲法9条を愛する烏山地域の会」展示より

敗戦後の荒廃した時代、戦争孤児たちは?
 敗戦後の大都市には、戦災で両親を失った孤児がいたるところにいた
 戦後数年間、上野駅地下道など(全国各地の駅周辺)に親も家も失った浮浪児がたむろしていた。地下道のコンクリートの上でごろ寝します。浮浪児はゴミ箱をあさるが、当時は食べ物が何もない時代。腐ったもの、魚の骨、リンゴの芯しかない。餓死や、腐った物を食べ中毒死、寒さに震え凍死していく子が続出しました。
T小 東京大空襲・45年12月から浮浪児狩りが行われたが・・・.jpeg
45年12月から上野では『浮浪児狩り』は何度となく行われたが、脱走は繰り返され浮浪児の数は増える一方だった。
S小 戦争孤児・駅をねぐらに靴磨き.jpeg
空襲の激しかった名古屋も戦災孤児が多かった。ここでも駅をねぐらに靴磨き(47年8月)

 国は戦争孤児を放置した
 親戚に預けられた孤児 =107、108人
 独立して生計を営む孤児= 4、201人
 施設に収容された孤児 = 12、202人    全国孤児数123、511人
                  厚生省調査(昭和23年2月1日全国一斉調査)

 ◆ 浮浪児3、5万人~4万人の浮浪児はこの数に入っていない(住所不定のため)。
 ◆ 養子に出された子も「親も家もある」ということで、孤児全数の中に入っていない。
 これらを足すと日本に10数万人の孤児が発生したことになる。なぜこれほど多くの孤児が生じたのか。日本の多くの都市が爆撃されたからである。全国で95万人の市民が殺された(1994年8月14日、東京新聞調査、50年後の調査)。
T小 東京大空襲・猛火に追われ焼け残った浅草の東本願寺に避難した人々.jpeg
空襲後の猛火に追われた人々は着の身着のままで逃げるのに精一杯だった。肉親と離ればなれになった子供たちも多かった。焼け残った浅草の東本願寺に避難した人々。

孤児の行く先
 上の表から国は9割以上を困窮している親戚に引き取らせたり、知人や養子にだしたり、国が費用を負担しないですむ対策をとった。すなわち、孤児に対して国の予算がつかなかった
 施設に預けられた孤児は約1割である。その内、民間施設238。官公立は38(同胞援護会、昭和21年12月調査)と施設全数の14%と驚くほど少ない。学童疎開中の孤児は、東京の場合は80名程度しか養育していない。この微びたる数で、国は戦争孤児を保護、養育したとはいえないだろう。民間人が私財を投げだして孤児施設をつくり、孤児たちを救済してくれたのだ。

学童疎開中に孤児になったもの=国や都の対応
★ 1945年6月、学童疎開中に空襲で両親を失った孤児たちを「戦災遺児の親は国難に殉じたのであるから、国は「国児院」をつくり、孤児たちを国が養育すると発表したが実行しなかった。国は孤児に予算措置を全くせずに、あたかも孤児たちを保護したかのような文書だけを発表した。

★東京都の学童疎開中の戦災孤児は、約3万5千人~5万人ぐらいと推定される。「東京都は学童疎開中の引き取り手のない孤児を、多摩の8学寮で345名を養育した」と様々な文献、東京戦災誌などに「345名を養育した」となっているが、これは疎開協などが調査した結果、8学寮(寺)に収容予定だった孤児たちを、次々に養子にだしては人数を減らし、小山学寮一つになり、81名しか養育していない。
T小 東京大空襲・疎開先から一時帰京した学童.jpeg
疎開先から一時帰京した学童。この日、東京大空襲で多くの子が死んだ。

学童疎開以外、空襲下を逃げた孤児等
 焼け跡に放り出された孤児たちは、その日から食べ物がありません。幼児、疎開残留(疎開しなかった児童)は浮浪児になるか、親戚、知人に引き取られたようです。
 中学生は学徒動員されていたが、敗戦と同時に放りだされ、浮浪児になった子も、学業を断念して働きはじめた子もいました。まだ13~15歳の中学生が、家もなく、親もなく、食料のない時代にたった一人で生きていくのは、どれほど悲惨であったか。

「浮浪児狩り」について
 国は、浮浪児=非行児、不良児とみなしていました。
 浮浪児は10歳前後がほとんどで、これは学童疎開した年代です。アメリカ占領軍から「汚いからこの浮浪児を、一掃せよ」と命令をうけた国は、「浮浪児狩り」と称して「一匹、二匹」と浮浪児を捕まえ、トラックで施設に運び、孤児が逃げ出さないようにハダカにして、鉄格子の中に閉じこめてしまいました。
 浮浪児は少年犯罪者として極印を押され、少年院や刑務所に入れ、社会から隔離されました。内部は矯正と称して殴る蹴る、軍隊もどきの体罰で、当時の国会でも人権蹂躙だと、問題にされました。脱走する子が多く、愛のない体罰は、子どもを反抗的にさせるだけで、多数が犯罪者になり、転落していったそうです。
H オリに入れられた浮浪児.jpeg
逃げ出さないよう鉄格子に入れられた戦災孤児(お台場にあった孤児収容施設)

都養育院 
 敗戦前後の都の公的孤児施設は、戦前からあった既存の養育院しかなかった。
収容者629人の食肉配給がいまだ一度も無き候につき昭和19年度38人、昭和20度316人の死者を出した」(養育院60年史より)
 都養育院は板橋養育院と栃木分院、安房分院がありました。
* 安房分院では館山保健所長の調査によると、「歩行困難21名、疥癬79名、入所児童140名中117名の8割が栄養失調」と報告されている。
T小 東京大空襲・孤児施設安房臨海学園.jpeg
寮母さんのお話を聞いているーー孤児施設安房臨海学園ーー

* 栃木分院では「昭和19年7月に開設され、昭和27年7月閉院まで、8年間の間に681名が永眠した」と塩原の墓石に刻まれた碑文が見つかりました。
* 板橋養育院に入所していた孤児の栄養失調の写真(菊池俊吉氏が撮影)があります。こうした孤児施設に国からの食料の配給がなかったのです
* 当時5歳だったSさんは、板橋養育院へ入れられました。死体がごろごろしていて死体の横に寝かされ、その後、安房分院へいきましたが、そこで孤児たちが柱の前に座り込み、振り子時計のように、頭を一日中ぶつけている子が何人もいたそうです。精神異常になってしまったのです。

孤児たちを救ったのは、民間人の善意だった
民間孤児施設
 当時、巷にあふれた孤児たちを、民間の篤志家が、私財を投げ出して施設をつくり、孤児たちを収容して養育しました。民間人が孤児たちを救ったのです。それでもあとからあとから親戚や養子先を逃げてくる子が後を絶たないので、浮浪児が増える一方、施設の絶対数の不足で浮浪児は減りませんでした。
T小 東京大空襲・戦災孤児収容所で昼食をとる子どもたち.jpeg
東京・池袋の篤志家による戦災孤児収容所で昼食をとる子どもたち(46年5月)。

○ 希望の家 (葛飾区)福島政一氏経営
 「母子授産所だったが、都民生局の役人がトラックで20数人の浮浪児をつれて、突然やってきた。他に行き場所がなかったようだ。栄養失調で声はガラガラ。皮膚病にやられシラミだらけ。大人を警戒する目。その日から戦災孤児を育てる事業が始まった。国からの援助、補助は一切なかった。先祖代々の土地、銭湯、家財も売って子どもたちに食べさせた。他の施設ではコン棒が当たり前だったが、愛情こめて育てた。6畳二間の貧弱な部屋でも、子どもたちが、『ぜいたくはいらない。旨いものはいらない』といってくれたのが何よりうれしかった」(福島政一氏談)

○ 愛児の家 (中野区) 石綿さだよ氏経営
 「1945年9月、主婦だった石綿さんは、飢えた浮浪児を見かねて家で保護したのがきっかけで、孤児施設をつくった。自宅の家屋敷を開放し、私財を投じ、47年には107名になった。食料が底をついたときもあった。高価な着物や道具も売り尽くした。他の施設で逃亡をくり返していた子が、高校へ入ったり、職業を身につけさせることを考えたり、愛情もって育てたので、皆逃げずに、実家だと思ってくれているのが誇りだ」(さだよさんの三女裕子さん談)(「千人の孤児とともにー戦災孤児をそだてた石綿さだよ」久保喬作)

○ 少年ハウス (足立区)河村契全氏経営
 足立区で昭和21年10月からバラック建築をはじめた。そこへ浮浪児7人が「おじさん泊めてくれよ」と尋ねてきた。相当の悪童だった浮浪児が次々に集まるようになり、芋がゆをすすりながら小学校へ通わせ、子たちに笑顔が戻った。(S23年4月24日毎日)

○ 「鐘の鳴る丘」のような「少年の家」(群馬県)品川博氏経営
 NHKドラマ「鐘の鳴る丘」はGHQの浮浪児対策からつくられたという。
 昭和21年3月、ラバウルから復員して、故郷赤城山の麓の村に帰るため上野駅までやって来た品川さんは、戦災孤児たちの悲しい現実にショックをうけ、孤児たちを救う決意をし、孤児たちに家と教育と職業を確保するために「鐘の鳴る丘」のような「少年の家」をつくった。戦災孤児のよりどころとなった「少年の家」から多くの子どもたちが救われ、世界へ羽ばたいていった。(「愛と勇気の鐘 孤児たちに一生をささげた品川博の愛の奇跡」藤崎康夫著 くもん出版)

 これらの私立の養護施設は愛情をもって養育したので、子どもたちは逃げ出さなかった


戦争で失った父母と家・戦災孤児の救出
T小 東京大空襲・孤児たちを救出した3人を紹介(本など).jpeg






【ホームレス自らを語る】東京大空襲の6歳から戦災孤児になってずっと1人で生きてきました。

月刊『記録』より
2009年6月9日
【ホームレス自らを語る】 第33回 戦災孤児でした / 秋元亮介さん(仮名・66歳)
東京大空襲の6歳から、天涯孤独の戦災孤児になってずっと1人で生きてきました。
 生まれは昭和14年、東京荒川区でした。荒川でも典型的な下町の千住の生まれです。
 父親は馬車曳きをしていたようですが、大変な酒飲みで、私が3歳くらいのときに肝硬変で亡くなっています。あとは母親と2人だけの母子家庭で、その母親には心臓に持病があって病弱でしたから、生活は苦しかったはずです。

 昭和20年3月9日夜9時すぎに、空襲警報のサイレンが鳴りはじめました。そのときのサイレンの鳴り方はまるで狂ったようで、子ども心にも何か途方もないことが起こる予感みたいなものを感じましたね。
 そのうちにB29の編隊の低い爆音が響いてきて、焼夷弾が投下されるときの独特の音が聞こえてきました。ヒルュー、ヒルューと音を曳きながら落ちてきて、バラバラと民家の屋根に礫を撒くような音ですね。
 私は母に手を引かれて、夜の町に逃げ出しました。外はあちこちから火の手が上がり、上空からはこれでもか、これでもかと焼夷弾が雨霰のように降ってきました。一度火が点くと木造家屋の密集した町は、たちまち火の海と化していました。

 それを避けながら母と私は夜の町を逃げ惑いました。最終的に2人が逃げ込んだのは、天王公園でした。千住大橋の近くにある公園で、そこに逃げて込んで命だけは助かりました。ただ、このとき空襲のなかを必死で逃げ回った母は、心臓に相当こたえたようでした。天王公園はいまでもあると思いますよ。
 翌日、火事が治まって家に戻ってみると丸焼けでした。庭に防空壕が掘ってあったので、焼け棒杭やトタンをかぶせて屋根にして、母と2人で入りました。でも、母はもう起き上がることができなくなり、それからは寝たきりになりました。6歳の私は母の枕元で、衰弱していく母親を見ているだけでした。

 それから幾日かして母が動かなくなり、子どもの私にも死んだことがわかりました。それで防空壕から外の道路に出ていると、見知らぬおばさんが通りかかったんで、そのことを話しました。すると、おばさんは親切にも母親の様子を見てくれ、死んでいることを確認すると、近所の人にたのんで遺体を焼く手配をしてくれました。
 東京大空襲の直後だったから、母親の遺体は学校のグラウンドのようなところで、ほかの遺体といっしょに焼かれたと思います。葬式の真似ごともしてやれませんでしたが、一応焼いてあげられましたからね。それにしても、あのおばさんの親切は忘れられませんね。


 それから先は天涯孤独の戦災孤児になって、今日までずっと1人で生きてきました。学校は小、中学校とも1日も行ってません。毎日の食いものを確保して、生きていくのに精一杯でしたからね。学校なんか行ってられなかったんです。

 終戦前後の食糧不足、物不足はひどいもので、しかも周りは焼け野原、そんなところで6歳の子が食い扶持を確保していくのは容易なこではなかったです。隣近所の子守りや買い物、留守番、農家や大工の手伝い……金になることなら何でもしました。

 それでも食べることがやっとで、戦後3年間はそのまま防空壕に住んでいました。その後も家が建ったわけじゃなくて、自分でつくったバラック小屋に住んだだけですけどね。世の中が落ち着いてくると、新聞配達やペンキ屋の手伝いもするようになりました。

 私は学校に行ってないから字が読めないんですけど、ひらがなだけは覚えました。だから、ルビが振ってあれば何とか読めます。それに算数の計算もできません。ただ、カネの計算だけはできるんです。それを覚えないと生きていけないから、必死で覚えましたね。

 15歳のころからは、夏は山に入って下草刈り、冬は飯場に入って土工の仕事をするようになりました。そのころはまだ林業が盛んでしたから、下草刈りでは千葉、埼玉、群馬など関東一円の山に入りました。土工の仕事は手元といって、作業員の仕事の補助をしたり、作業現場の片付けなどの一番下っ端の仕事をしました。私は学校へ行ってないから、何の資格も取れませんでしたからね。

 下草刈りや土工の仕事は飯場に入って集団生活をします。私の場合は集団生活の経験がありませんから、うまく馴染めずに大変でした。ちょっとからかわれたり、小バカにされたりすると、すぐに手が出て殴りかかっていってしまうんです。
 それで仲間と気まずくなったり、仕事をクビになったり、ずいぶん損をしました。やっぱり学校へ行ってないという僻み根性があるんでしょうね。

 変わったところでは、30代の半ばに松竹映画の大部屋俳優をやったことがあります。この仕事だけは2~3年続きましたね。撮影所は大船(神奈川県)にあって、毎日毎日役を取っ替え、引っ替えで出てました。だから、何という作品に、どんな役で出たのかは覚えちゃいません。ほとんどがセリフのない通行人の役でしたからね。

 あとはまた、林業の下草刈りや木材の伐採の手伝い、土工の手元の仕事に戻りました。いまは林業のほうの仕事はなくなって、土工の仕事ばかりです。古くから知っている手配師がいて、こんな歳ですが時々仕事を回してくれるんです。
 そうやって稼いだ金で映画を見に行きます。浅草には古い時代劇やヤクザ映画ばかりをやっている小屋(映画館)がありますから、そこで見るんです。若いころ映画の大部屋に入ったこともありますから、私はやっぱり映画が好きなんでしょうね。(聞き手:神戸幸夫)


東京大空襲 遺体処理証言

 東京大空襲 遺体処理証言
http://www16.plala.or.jp/senso-koji/より】

 3月10日の昼すぎより遺体処理作業がはじまった。軍隊、都職員、警防団、消防隊、警察、挺身隊、学徒動員の中学生、博徒や囚人部隊にいたるまで、近隣から遺体処理をする人が狩り出された。
 
◇ 軍人の証言 関口宏陸軍大尉 (岡田孝一著「東京大空襲の私」より)
3月10日、午前2時、「死体を早く処理せよ」と軍命令が下った
「3月10日午前2時ごろ、東部軍管区司令部の指揮下に入るよう命令をうけ、千葉街道を一直線に車で走った。市民の焼けぼっくいの死体をふんで走ることに罪悪感にさいなまされた。炎と煙、目をおおう死骸の折り重なる死の街をぬけ、朝、5時すぎ司令部に到着する。『貴下は特設自動車隊長として、本所、深川地区の死体処理に任ずべし。陛下が御視察遊ばされるを以て、日の出前に目にふれる死体を処理清掃せよ』と。3月10日午前10時、総数700余名、自動貨車40数台、命令に従い死体の処理につとめた。」
 
 
 *実に驚くべき証言である。
 第1に、死体の上をトラックが踏みつぶして走る。死者の尊厳などまったくない。何台ものトラックが死体の上を走れば人間はペチャンコになるか、ばらぱらに引き裂かれてしまうだろう。
 第2に「死体を清掃せよ」とは。民間人はゴミなのか。恐ろしい言葉を平気で発するのは、市民を人間扱いしていない証拠だろう。ゴミとして扱っているのである。
 第3に「天皇の目にふれぬよう早く処理せよ」。戦争をはじめたのも天皇であり、戦争を終わらせるのも天皇である。最高責任者である天皇に、なぜありのままの実態を見せないのだろうか。もし、天皇があの凄惨な惨状を確かめたなら、戦争は早く終わっていたかもしれない。その後につづく沖縄地上戦も、広島、長崎の原爆投下もなかったのである。戦争を長引かしたのも、おそらく軍がすべてを隠して上奏していたのであろう。

 
◇ 囚人部隊の証言 三浦貞雄氏(「週刊読売}1975/3/22より)
「我々は囚人約140人、引率者20人が錦糸公園に出役することになった。公園内はつくだ煮のごとくなった死体の山がいくつもあった。思わず目を覆わざるをえなかった。こんな状況がこの世の中にあるものであろうか。地獄とはこのことをいうのであろう。
 そしてトラックで死体を運んでくる兵隊、警官、消防官ー。どの人も焼死者の脂でドロドロになりながら、トラックから死体を降ろしていた。そしてわれわれ囚人部隊が、土に穴を掘り、埋めた。
 30人ほどの一団もやってきた。この部隊は東京の博徒だということだった。<武蔵挺身隊>という。また、横浜の博徒たちでは<大和挺身隊>と名つけて同じような活躍をしたと聞いている。収容者による死体処理は、錦糸公園、猿江公園とつづけられた。私は死臭にはまったく弱った。」

*錦糸、猿江公園では、大きな穴を掘り、一つの穴に300人ぐらい入れたそうです。 


◇ 東京都公園課職員証言 野三千寿氏(「改葬始末記」より)
「猿江公園へいきました。軍隊は朝の5時ごろにきて、6尺の穴をほり、そこへ死体を合葬する。そのとき『死体数をキチンと数え、名前のわかるものは控えて別に埋葬しろ』と厳しくいわれていたのです。その通りにしようと思っても、窒息死などで氏名判明者もありましたが、軍隊がどんどん埋めてしまうので取り出すことができない。そして軍隊は11時には帰ってしまうんです。
 12時すぎになると警察学校の人と監獄の人が死体を運んだんです。猿江は死体の山で体数を調べよといわれても調べようがようがない。トラックで死体を運んできて、何体ありますかと聞いても、いい加減な答えしか返ってきません。作業は6時ごろまでしました。」

*氏名判明者も一緒に埋められ、ある人の証言にメチャクチャに缶詰のように押し込んだ 所もあったという。私は「埋葬」という言葉を使いたくない。ゴミ扱いだと思う。  
 

◇ 瑞江火葬場の証言 山中政一氏証言 (「改葬始末記」より)
「空襲直後は死体をトラックで運んできて、渡り廊下から車庫近くに積んだのです。すると毎日、毎日、遺族が探しにくる、山に積んである死体を大勢の人たちが、あっちだ、こっちだ、と動かすものですから、朝のうちの山が、夕方にはこっちの方へ移ってしまうという騒ぎでした。とにかく氏名の判明した人から先に焼きました。火葬できずに瑞江構内に埋めた死体165体あります。」


*遺族は親や子の遺体を半狂乱になって探し歩きました。焼けこげの布切れ端からでも、 手がかりをつかもうと、黒こげの死体をひっくり返し、何日も、何日も必死になって探しつづけた。
 

◇ 救護隊長の証言 久保田重則氏(「東京大空襲の記憶」より)
「街のいたるところで、材木でも放り込むように、トラックの荷台に死体が投げこまれていく。これらの死体は公園や空き地に仮埋葬されるか、あるいは火葬された。上野西郷さんの銅像の横にも臨時の火葬場が設けられ、ここで何日も火葬がつづいた。1~2週間は焼け跡のあちこちで、連日火葬の煙がたちこめ、もう死臭や火葬の悪臭を感じなくなっていた。

 そのうち天皇が視察されると知らされ、昼夜兼行で巡行路付近の死体片づけがつづいた。いちばん関係者の頭を悩ませたのは、竪川、大横川など多数の掘り割りに浮く死体であった。おびただしい数の死体が、海に流れていったはずなのに、まだたくさん浮いているのである。消防隊がトビ口で引っかけて引き寄せておいて、ローブをかけて橋の上に引き揚げるのだが、一体を運び上げるのに大変な手間がかかった。


 こうして川いっぱいの死体をやっと引きあげると、翌日の満潮時には、また川いっぱいに死体が浮かぶ。作業員たちはくたくたになって重い死体を引きあげる。ようやく片づけると、その翌日にはまた川いっぱいの死体で、一体どこからくるのかわからない死体の攻撃には悪銭苦闘をつづけた。このように隅田川や多くの掘り割りから、東京湾、太平洋へと流れていったおびただしい死体は、どのような運命を辿ったのであろうか。」

T小 3月10日空襲の夜が明けると、運河も道路も焼死した黒こげの遺体で埋めつくされた.jpeg
3月10日の空襲の夜が明けると、東京の江東・墨田地区は運河も道路も公園も、逃げまどう最中に焼死した黒こげの遺体で埋めつくされていた。

T小  3月10日、余燼くすぶる台東区浅草付近.jpeg
3月10日、余燼くすぶる台東区浅草付付近

T小  昭和20年3月16日、台東区上野両大師脇で焼死体を埋葬する警察官.jpeg
昭和20年3月16日、台東区上野両大師脇で穴を掘って焼死体を埋葬する警察官

T小  昭和20年3月16日、墨田区本所菊川橋付近で川中に浮かぶ焼死体.jpeg
昭和20年3月16日、墨田区本所菊川橋付近で川中に浮かぶ焼死体

T小 東京大空襲・天皇の焼け跡視察(昭和20年3月18日).jpeg
3月10日の大空襲で焦土と化した深川区(現江東区)を視察する昭和天皇。写真は焼け落ちた富岡八幡宮を訪れたとき。(昭和20年3月18日)

自衛隊が毒ガス製造【大宮駐屯地】化学学校でサリンなど7種類

2013.7.6の新聞より
自衛隊が毒ガス製造【大宮駐屯地】化学学校でサリンなど7種類
周辺に学校・保育所、説明せず

【陸上自衛隊化学学校】
 防衛相直轄の機関で、核・生物・化学兵器(NBC)から「防護」のための教育訓練が主任務。定員は100人程度で、1957年から大宮駐屯地に所在。近年は約11億円の年間予算が投じられている。
防衛省製造を認める
S小 2013.7.6の新聞「自衛隊が毒ガス製造」.jpeg
週刊金曜日2013.8.2号より
サリンなど8種、5年間分のみ初開示
防衛省が毒ガス製造量明らかに
K小 週刊金曜日2013.8.2号「防衛省が毒ガス製造量明らかに」.jpeg

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。