【ホームレス自らを語る】東京大空襲の6歳から戦災孤児になってずっと1人で生きてきました。

月刊『記録』より
2009年6月9日
【ホームレス自らを語る】 第33回 戦災孤児でした / 秋元亮介さん(仮名・66歳)
東京大空襲の6歳から、天涯孤独の戦災孤児になってずっと1人で生きてきました。
 生まれは昭和14年、東京荒川区でした。荒川でも典型的な下町の千住の生まれです。
 父親は馬車曳きをしていたようですが、大変な酒飲みで、私が3歳くらいのときに肝硬変で亡くなっています。あとは母親と2人だけの母子家庭で、その母親には心臓に持病があって病弱でしたから、生活は苦しかったはずです。

 昭和20年3月9日夜9時すぎに、空襲警報のサイレンが鳴りはじめました。そのときのサイレンの鳴り方はまるで狂ったようで、子ども心にも何か途方もないことが起こる予感みたいなものを感じましたね。
 そのうちにB29の編隊の低い爆音が響いてきて、焼夷弾が投下されるときの独特の音が聞こえてきました。ヒルュー、ヒルューと音を曳きながら落ちてきて、バラバラと民家の屋根に礫を撒くような音ですね。
 私は母に手を引かれて、夜の町に逃げ出しました。外はあちこちから火の手が上がり、上空からはこれでもか、これでもかと焼夷弾が雨霰のように降ってきました。一度火が点くと木造家屋の密集した町は、たちまち火の海と化していました。

 それを避けながら母と私は夜の町を逃げ惑いました。最終的に2人が逃げ込んだのは、天王公園でした。千住大橋の近くにある公園で、そこに逃げて込んで命だけは助かりました。ただ、このとき空襲のなかを必死で逃げ回った母は、心臓に相当こたえたようでした。天王公園はいまでもあると思いますよ。
 翌日、火事が治まって家に戻ってみると丸焼けでした。庭に防空壕が掘ってあったので、焼け棒杭やトタンをかぶせて屋根にして、母と2人で入りました。でも、母はもう起き上がることができなくなり、それからは寝たきりになりました。6歳の私は母の枕元で、衰弱していく母親を見ているだけでした。

 それから幾日かして母が動かなくなり、子どもの私にも死んだことがわかりました。それで防空壕から外の道路に出ていると、見知らぬおばさんが通りかかったんで、そのことを話しました。すると、おばさんは親切にも母親の様子を見てくれ、死んでいることを確認すると、近所の人にたのんで遺体を焼く手配をしてくれました。
 東京大空襲の直後だったから、母親の遺体は学校のグラウンドのようなところで、ほかの遺体といっしょに焼かれたと思います。葬式の真似ごともしてやれませんでしたが、一応焼いてあげられましたからね。それにしても、あのおばさんの親切は忘れられませんね。


 それから先は天涯孤独の戦災孤児になって、今日までずっと1人で生きてきました。学校は小、中学校とも1日も行ってません。毎日の食いものを確保して、生きていくのに精一杯でしたからね。学校なんか行ってられなかったんです。

 終戦前後の食糧不足、物不足はひどいもので、しかも周りは焼け野原、そんなところで6歳の子が食い扶持を確保していくのは容易なこではなかったです。隣近所の子守りや買い物、留守番、農家や大工の手伝い……金になることなら何でもしました。

 それでも食べることがやっとで、戦後3年間はそのまま防空壕に住んでいました。その後も家が建ったわけじゃなくて、自分でつくったバラック小屋に住んだだけですけどね。世の中が落ち着いてくると、新聞配達やペンキ屋の手伝いもするようになりました。

 私は学校に行ってないから字が読めないんですけど、ひらがなだけは覚えました。だから、ルビが振ってあれば何とか読めます。それに算数の計算もできません。ただ、カネの計算だけはできるんです。それを覚えないと生きていけないから、必死で覚えましたね。

 15歳のころからは、夏は山に入って下草刈り、冬は飯場に入って土工の仕事をするようになりました。そのころはまだ林業が盛んでしたから、下草刈りでは千葉、埼玉、群馬など関東一円の山に入りました。土工の仕事は手元といって、作業員の仕事の補助をしたり、作業現場の片付けなどの一番下っ端の仕事をしました。私は学校へ行ってないから、何の資格も取れませんでしたからね。

 下草刈りや土工の仕事は飯場に入って集団生活をします。私の場合は集団生活の経験がありませんから、うまく馴染めずに大変でした。ちょっとからかわれたり、小バカにされたりすると、すぐに手が出て殴りかかっていってしまうんです。
 それで仲間と気まずくなったり、仕事をクビになったり、ずいぶん損をしました。やっぱり学校へ行ってないという僻み根性があるんでしょうね。

 変わったところでは、30代の半ばに松竹映画の大部屋俳優をやったことがあります。この仕事だけは2~3年続きましたね。撮影所は大船(神奈川県)にあって、毎日毎日役を取っ替え、引っ替えで出てました。だから、何という作品に、どんな役で出たのかは覚えちゃいません。ほとんどがセリフのない通行人の役でしたからね。

 あとはまた、林業の下草刈りや木材の伐採の手伝い、土工の手元の仕事に戻りました。いまは林業のほうの仕事はなくなって、土工の仕事ばかりです。古くから知っている手配師がいて、こんな歳ですが時々仕事を回してくれるんです。
 そうやって稼いだ金で映画を見に行きます。浅草には古い時代劇やヤクザ映画ばかりをやっている小屋(映画館)がありますから、そこで見るんです。若いころ映画の大部屋に入ったこともありますから、私はやっぱり映画が好きなんでしょうね。(聞き手:神戸幸夫)


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